私は一時期「休煙」していたことがありますが、それは別に「周りから言われたから」とか「体が心配になった」とかという理由ではなく、単にある日突然「...止めてみようかな?」と思ったのがきっかけです。結局半年後に復活し現在に至っています。
で、最近ますます喫煙者に対する風当たりが強くなってくる中、ひねくれものの私の心の中には「何でそんなにタバコが悪者になるの???」なんて思いがふつふつわいてきていたり。そんな中、今年の春辺りに本屋でこの本が目に留まりました。

名取春彦・上杉正幸 著
「タバコ有害論に意義あり」
なんていうか、本屋のカウンターで禁煙関連の書籍の片隅にこの本が置いてあったのを見たとたん、手に取ってしまいました。
内容については、冒頭学者さんらしく「現状のタバコ有害論の根拠」に対して一つ一つ反論を加えられていました。まぁ、その辺りの真偽については学者さんにお任せするとして...読んでいて唯一頭に残ったのは
「昔のタバコは手軽ではなく、心構えをして吸っていた」
「手軽になったのは「紙巻タバコ(シガレット)のせい」
「手軽になったせいで、彼方此方で煙が上がり始めた」
というくだり。
タバコはいわゆる「嗜好品」です。生活必需品じゃないわけです。
昔なら、そんなにお手軽に吸える物ではなかった。
吸うときには、キセルにしても葉巻にしてもパイプにしても、儀式を経て「タバコを吸う時間(1時間前後)」を確保して吸っていた。
それが、安く手軽に吸える紙巻タバコが出てきたおかげで、誰もがタバコを吸えるようになった。
吸うにあたって儀式は必要なくなり、箱から取り出して火をつければOKになった。
吸う時間も、1時間なんて長時間ではなく、10分弱という短時間になった。
どこでも、最小限「火種」さえあれば、お手軽に吸えるようになった。
結果、ありとあらゆるところでタバコの煙が発生するようになり、タバコを吸わない人にも煙を強制させることになり、喫煙者と禁煙者の対立となった。
要約すればこんな感じでしょうか。
嗜好品ということで考えれば、「タバコを吸う」という行為は、極論「コーヒー・紅茶を味わう」「お茶を楽しむ」という行為と同義になるかと。
そう考えると、タバコも本当に楽しむのは雑踏で慌しく「吸う」のではなく、落ち着いた環境の中で
周りに気を配り、心構えをして「紫煙を燻らす」というのが本来なのかなと。お茶に「茶道」があるがごとく、タバコにも「紫煙道」なんてものがあるとかないとか...
#一箱1000円になったら、こんなスタイルになるのかな?
そんなことを考えながら、今日も駅のホームで慌しくタバコを吸っている自分が居たりするわけですが...いずれ自分のスタイルというのを確立させたいなと思う今日この頃...
p.s.
先の本が気になった方は、下の本もお勧めです。

丸山茂徳 著
「地球温暖化論」に騙されるな!
他にも、田中淳夫 著の「割り箸はもったいない?」とか、後手放してしまいましたが昨今のリサイクル活動に対して異議を唱えている本も色々あったような...「エネルギー問題」「ごみ問題」は非常に重要な問題ですが、その解決策として世論そのままを受け入れるのではなく、たまにはこういった本で頭の中を「中和」するのも必要かなと私は思ってみたりするわけで。